雑俳の風景―20

溝口 浩

紅梅や帯胸高に謝恩会

 

謝恩会といわれてもぴんとこないですね。小学校から大学まで思い出の中に見当たりません。わずかに中学で卒業式の後で「茶話会」というのが記憶の片隅に残っていますが教頭先生が一人で盛り上げようとしても誰も乗ってこない淋しい茶話会でした。

 

この中学校は生徒数が増え始めて抱えきれなくなり、新設された学校です。我が家のすぐ裏にあって建設工事中はよく見に行ったものです。ところがこの土地から膨大な人骨が掘り出されてドラム缶に一杯や二杯ではない、縄文時代の遺跡でなければこれはもう寺の跡にちがいありません。

このあたり、私のいた頃は三田功運町と称していました。功運町とは江戸時代にあった功運寺の境内なんだそうです。東京江戸博物館の、ロビー床いっぱいに広がる東京の古地図をみると、確かに功運寺があります。当時は修行の寮もある大きな寺だったようですが、大正十一年に中野に移転しました。

 

功運寺は1598年徳川家康の家臣永井尚政が黙室禅師を招いて桜田門外に開いたお寺ですが、二代目住職天存慶存が家康の甥であったことから三田の地に幕府の朱印地として二万坪を与えられこの地に移転しました。江戸幕府の庇護もあって名実ともに大寺としての風格を備えていたようで、東海道を下ってきた曹洞宗の僧は江戸に入る前に必ずこの寺に立ち寄ったことなどでその実力が推測できるのです。それだけの大寺が何故郊外の中野に移設されたのか、そこには何故吉良上野介の墓があるのか。そんな話はまた別の機会にしましょう。

…つづく