敗戦前後の記憶-27

溝口 浩

焼け跡と闇市の東京-8

 

南山小学校は碑小学校より更に3年早い明治9年の創立、麻布十番と六本木の間の丘の上にある。先生は2年生の3学期だけ松江先生、3年と4年生が荒井先生、5,6年生で吉川先生にお世話になった。ともに女性の先生、吉川先生はご健在で年に一度は数人で席を囲んでいるがちょうど一回りの年の差もなんのこと、いちばんお元気である。

南山小学校は今までどおりの机を並べての授業ではなく、2年生の3学期には六人ひと組で島を作ってのグループ制をいち早く取り入れていて、社会科の授業ではグループ毎に研究発表などをしていたが、よその学校の先生達が見学に来ていたから、戦後授業のモデル校だったのかもしれない。給食も他校よりは早く始まったようで、初期にはコーンビーフの大きな缶詰を皆で分けて食べたりして感激していた。給食が普及してくるとそんな高級なものは出なくなり、脱脂粉乳のミルクなどは美味いものではなかったが、このおかげで子供たちの体位が向上したことは間違いない。学校給食は日本の子供たちを救うために、アメリカ、カナダや中南米の各地から集まった資金や物資を一括して、対日援助物資として送り出したララ物資が元になっていて、ララ物資が敗戦後の多くの学童を栄養失調から救ってくれた。

昭和二十二年の初めに三田の家が完成して転居した。何年もの仮住まいのあとだったからさすがに嬉しかった。

この後も社会的には時代の変わり目の事件もあったが学童にとっての激動の時代は終わり、職業野球がセとパの2リーグ制となって私も野球少年へと育っていく。

おわり