敗戦前後の記憶-26

溝口 浩

焼け跡と闇市の東京-7

二十一年の暮れに麻布十番の近くに転居した。これは後に芝三田功運町に家を建てるための仮住まいだったが、ここで転入した南山小学校には卒業まで通い続けることになる。仮住まいは北新門前町三番地で、父の友人の家の離れの八畳間だった。

この家には東洋英和に通う四歳上のきれいなお姉さんがいて、よく一緒に遊んでくれたが、おかげでクラスメートからは妬みもあってよくからかわれた。この頃の食事は朝も晩も野菜炒めが多くて「お宅は野菜炒めが好きなのね」などと隣家の人に言われていたが、ソースはあっても醤油が無いものだから、必然的に野菜炒めになったわけで、「別に好物だからじゃないのよね」と母は苦笑していた。今の人は醤油が無いということを不思議に思うかもしれないが、物不足のこの時代には醤油の原料である小麦や大豆が不足して作るのもままならないうえに、本醸造の醤油は製造に一年もかかったものだから、簡単に手に入るものではなかった。余談だがこのあとに化学的に製造されたアミノ酸液を混合したアミノ酸醤油が出回って、本醸造の醤油が本格的に生産されるまではしかたなくこれを使っていた。

…つづく