敗戦前後の記憶-21

溝口 浩

 

焼け跡と闇市の東京-2

 

配給品の対象となっているのは統制品といわれて、特に米は米穀通帳なるものがあってこれが無ければ米は買えなかった。後に米も自由に買えるようになってもこの制度だけは残っていて、昭和も四十二年に我々が結婚した時でさえお上から米穀通帳が支給された。もちろん使う機会などありはしない。

こんな具合だから闇米の取り締まりは厳しくて買い出しに行った帰りに取り締まりに会い、全部取り上げられることなどは普通のことだったから、米のご飯を食べられることは最大の贅沢だった。我が家も伯母が、時には母もが登戸あたりの農家まで買い出しに出て芋などを買ってきたが、ひどいインフレでお金の価値がどんどん下がるものだから、品物を持っていかないと売ってくれないので、着物を持っていって食料に代えてもらった。母は「農家が足元を見て少ししか分けてくれない」とぼやいていた。時にはリユックの底に米を入れて、その上にいっぱいの薩摩芋でカムフラージュして帰ってきたこともあって「今日はお米が買えたよ」と晴れやかに宣言した。途中の取り締まりに身の縮む思いもしただけに子供たちに食べさせてやれる嬉しさが溢れていた。

…つづく