敗戦前後の記憶-12

溝口 浩

戦時の旅-1

 

六月の終わりに父が突然やってきた。少しでも家族を近くに置きたいという思いで、会社が疎開している山梨に行くんだそうだ。その時はわけもわからずについていったが、激しい空襲が続く道中を考えると迷惑な話だった。

父と母にまだ首も据わっていない妹と四歳寸前の弟、七歳の僕、それに東京からついてきた、父の部下の小関七郎さんとの六人は七月四日に別府港から船出した。いくら瀬戸内の航路とはいっても、敵機に襲われる危険はいっぱいだったろうが、ともかく無事に神戸に到着した。この日から三十二日後、広島に原爆が投下された。神戸駅で名古屋行きの汽車を待ちながら、駅前の広場の大勢の人たちの中で、持ってきた握り飯を食べ始めると、何人もの浮浪児が目の前をうろうろする、彼らは後に戦災孤児と云われた子供たちだが、飢えをしのぐ為に握り飯を狙っていて、少しの油断も出来なかった。

 

ところで父はなぜこの時期に危険な旅をしてまで家族を身近に置きたかったのだろうか。生前の父に確かめなかったのを悔やまれるのだが、推測するとこうなる。

父の会社は軍需のテントを製造していたので戦況には明るかったのではないか。そして既に敗れたドイツが英米仏露の四国に分割統治されたのをみれば、日本も米英中露に分割統治され東京はアメリカで九州は中国か、と思いを巡らしたのではないか。とすれば無理をしても家族を身近に置きたいと思うのは無理もないことだったのだろう。

…つづく