敗戦前後の記憶-10

溝口 浩

疎開-5

 

七月十三日の深夜、あたりの騒々しさに眼を覚まして母の指差す方を見ると、大分市の上空が真っ赤に燃え上がっていて、大八車に家財道具を満載した人たちが黙々と通り過ぎていった。沿道に並んだ近隣の人たちがその中に知人を見つけると、空襲の様子を聞いたり励ましたりしていた。この空襲で緊張感が増して、一年生に四㌔の道のりを通わせるのは危険と感じたのか、一、二年生だけ峠の手前にある、雄城村のお寺を分校として通うようになり、先生も若い女の先生に代わった。

父の実家、吉松のいとこ達も近所の土蔵に疎開してきた。親しい友達のいない土地だけにさすがに心強く、五年生の宏一、二年生の修二とは、いつもつるんで遊んでいた。中学生の和子姉さんは勤労奉仕で、慣れない田植えに駆り出されていた。

峠の切り通しでは軍の物資保管用のトンネル掘りが、朝鮮の人たちの一団によって行われていたが、この一団の親方と家族、それに何人かの作業員が私の住居の敷地内にある土蔵に住んでいて、親方の子供が同級生だったので一緒に遊んでいたから、「遊んでくれてありがとう」の意味だったのか、彼らにはご馳走のおこげをにこにこしながら持ってきてくれたりもした。

…つづく