敗戦前後の記憶-9

溝口 浩

疎開-4

どこの土地でも新しく来た子はだいたいがいじめられるものだが、「下駄を履いて学校に行くといじめられるよ」と教えてくれる子がいて、同級の子が編んだ藁草履を五十銭で買って、履いて行ったのでいじめられることはなかったが、村長の息子に高給な草履だといって、竹の皮で編んだ草履を一円で売りつけられたこともあった。それでもいじめられないための保険の効果はあった。いずれにしても都会臭を出さないように気を遣ってうまく付き合っていた。 近所にいつも雨戸を閉め切った家があって、この前を通るときには鼻をつまんで走って通り抜けて、通り過ぎたら唾を吐くんだよと、二つ上の女の子が教えてくれたので、皆そのようにしていた。この家には結核の娘がいて当時は不治の病だったからたいへんに恐れられていた。当時はどこでもこんなことはあったのだろう。

この頃になると中等学校以上の生徒は勤労奉仕といって軍需工場で働かされ、大砲の弾や鉄砲などを作っていたが、我々も放課後に集められて桑の枝の皮むきをさせられた。これは綿や絹などの衣料の材料不足を補うために、桑の皮から繊維をとる為で、世間話をしながらひたすら皮をむいていた。

…つづく