敗戦前後の記憶-8

溝口 浩

疎開-3

大分市にも近々大空襲があるとの噂が飛んで、更に田舎のわさだ村に移り、農家の一部屋を借りて六月には妹の美佐子が生まれ、私も一年生になっていた。このころ東京に残っていた伯母は、母のお産の助けか、それとも父が危険な東京から疎開させようと思ったのか、大分にやってきて、八畳一間に五人の家族になっていた。

わさだ小学校への道のりは峠を越えて一里、4㌔で、六年生以下同じ村の生徒が集団で登校した。一年生を最前列に、六年生が横について縦列正しく歩行したが、さすがに途中はいいかげんで、ぶらぶら行きがちな一年生を上級生が後ろから鶏を追うように進んだが、校門が近くなると校門に立っている先生の眼を意識して、六年生が「足をそろえろ」などと言いながら号令をかけて整然と行進した。 入学の日の出来事だが、机に名札が貼り付けてあっても、僕の名札が見当たらない、よく見ると「ミドグチ」の名札があるのでこれだと思って先生に「これ違ってますよ、ミゾグチですよ」と申し出たらすぐに「ド」を二本線で消して脇に「ゾ」と書き足してくれた。この話を家でしたら伯母が「ミドグチ」などと書く先生を見てみたいと云っていたが、三日目には本当に弟の二郎を連れて学校にやってきた。ところが来たとたん廊下に立たされている僕を見て唖然、先生もすぐに気が付いて席に戻してくれた。

これは授業中に突然校庭で六年生がラッパの練習を始めたからで、珍しいから窓際に飛んでいったら、先生の逆鱗に触れて「立ってなさい!」になったわけ。一年生でも厳しく処罰を受ける時代でした。 このラッパは集合、始業、終業などの合図に使われて、軍隊での習慣が学校にそのまま移植されていた。

…つづく