敗戦前後の記憶-7

溝口 浩

疎開-2

三月十日の東京大空襲を伝える伯母からの手紙は葉書で来た。父とともに東京に残った伯母からの手紙には、当日は寒さで水道が凍りつき消火が出来なかったと、当たり障りの無い話に終始していたが、これにはわけがあって、葉書にしたのもそれなりの理由があった。 まだ経堂に住まっていた頃の話だが、大分の実家に行っていた伯母からの封書の端が切られて、そのあとに紙が貼られていた。それは検閲されたあとだった。この時代にはプライバシーの保護など、薬にしたくもない時代で、国政を批判する内容とか、空襲でどこが焼けた、軍隊の移動情報、港に軍艦が入ってきたなどの記述があると、特高警察というスパイ取締り機関に連れて行かれ、拷問の末に獄中死などはよくあることで、我が家の手紙は誤解を招かないためにも、葉書に簡単に細心の注意を払って書かれていた。

東京には十九年の暮れから敗戦まで、百回を越える空襲があったが、三月十日の大空襲は無差別爆撃で、一般市民を巻き込んだ悲惨なものだった。先ず房総半島から侵入したB29の先発隊が、江東区、墨田区、台東区にまたがる下町の周囲に、ナパーム焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を絶った。それに続いて飛来した三百機を越えるB29から、三十万発を越える黄燐焼夷弾などが投下され、猛火に追われて隅田川などに飛び込んだ人たちは強風に捲かれた炎が、川面を舐めるように駆け抜けるなか次々と沈んでいった。 こんな実情を知ったのはずっと後になってからのことだった。

…つづく