敗戦前後の記憶-5

溝口 浩

空襲警報発令-5

 

 

何時の頃からか、三月に東京に大空襲があるという噂がひろまって、それが原因だか知らないけれど、父母の故里大分に疎開することになった。疎開というのは小学生を中心に、危険な都会から、空襲の無い田舎に一時避難させることで、親類知人が田舎にいれば、そこを頼りに身を寄せる縁故疎開があり、地方に身寄りの無い子供たちは、学校単位で田舎のお寺などに寄宿する集団疎開で、学童疎開ともいった。初めは三年生以上の小学生が対象だったが、二十年になると一年生と二年生もほぼ強制的に集団疎開させられた。 縁故疎開の方はなんといっても親類だけにそれなりの待遇で、僕の場合などは、何よりも母親が一緒だったから心強かったが、強制疎開の方は他人ばかりの中に放り出されて、いくら先生や同級生が一緒とはいっても、心細いのはあたりまえだった。経験者の話を聞くとなによりも食べ物が無くて、育ち盛りにひもじい思いをしたことがつらい思いだったと云うし、居住環境も悪く、蚤や虱にもずいぶん悩まされたらしい。 敗戦とともに帰京した彼らの中には、家族の誰かを失ったものも数知れず、両親を失って路頭に迷い、浮浪児として生きてゆかねばならない者も少なくはなかった。

義兄の体験談。集団疎開先で引率の教師が学童に渡るべき貴重な食品を自分の家族に回していた。あのときは生きるために皆必至だったが70年経った今でもあいつだけは許せない。

…つづく