敗戦前後の記憶-4

溝口 浩

空襲警報発令-4

従兄弟の池部雅文さんが出征して、盛大な壮行会が開かれたころから、都心への空襲が日常茶飯事となり、経堂から赤堤経由新宿方向の空の一部が、暗闇の中に真っ赤に染まる夜が多くなつて、不安の気分が高まってきた。 そんな頃に行われたのが金属回収で、飛行機や軍艦を作るために、不足している金属を民間から集めようという企てだった。我が家からは青銅製の花瓶や銅板製の米櫃を、隣組長宅の庭に持って行ったが、よその人は壊れた三輪車とかがらくたばかりで、なんでうちばかりこんなに出すの?と思ったけれど、母も後からもったいなかったねと云っていた。多分生真面目な伯母の指示だったのだろう。 この時にお寺の鐘や銅像などがほとんど消えたが、それらが本当に役に立ったかどうかは定かでない。 そのほかに宝石類の回収なども行われたようで、それが敗戦後にかなりの量が日銀の倉庫に残っており、貴金属回収とはかなりいいかげんに行われて、いいかげんに始末されたらしい。 隣組とは~回してちょうだい回覧板、知らせられたり知らせたり~と歌われたような相互組織という役割の上に、相互監視の一面も持っていたから、ちょっと怖いところもあった。 この組織を中心に行われたのが防火訓練で、お母さんたちが集まって、空襲で家に火がついたことを想定して、各家の前に置かれた防火用水槽からの水を、バケツリレーしたり、竹ざおの先に何本かの布縄をくくりつけた火ばたきなるもので、火を消す訓練を真面目な顔をしてやっていた。ところが空襲の時には猛火の前に、結局はなんの役にもたたなかったし、防火用水槽はぼうふらの養殖場となった。

…つづく