敗戦前後の記憶-2

溝口 浩

空襲警報発令―2

 

ところで庭に作られたこの防空壕が今から思えばお笑いで、大阪からの引越し荷物を入れてきた六尺×四尺ぐらいの木箱を、庭に埋め込んだだけのもの。屋根などは無く、しかも小田急の経堂駅に近いこのあたりは、水はけが悪くて、防空壕の中に水がしみ出て溜まるものだから、板で作った船のようなものに乗り、日差しの強い日には傘を差して、敵機を眺めているという牧歌的なものだった。 ところが戦局が悪化してくると、そんな風流もいつまで続くわけも無く、編隊での飛来が始まると共に「マリアナ諸島のB29が・・・」という空襲情報がラジオから流れ出して、大人たちの不安げな話題も日常の事になってきた。日々の生活も不自由になり、外食切符が無いと外で飯も食べられず、それもいつでもありつけるわけではなかったから、店が開いていれば長蛇の列で、糊の様な雑炊を楽しみに待っていた。物の無い時代だから店が開いていれば人が並んだ。道を歩いていて行列をみつけると、最後尾にいる人に「何を売ってるんですか」と聞けば、「私も分からないんですよ」と返されて、それでも「並んでみよう」と、とにもかくにも並んでみる。母に手をつながれた僕も、何が買えるのかなと期待しながらの並びだった。こんな風に並んでも「もう売り切れました」と言われて、結局は何を売っていたんだか最後まで判らず仕舞いになることも稀ではなかった。

…つづく