戊辰の船橋戦争―13

溝口 浩

新政府軍の逆襲

一方、鎌ケ谷にいた佐土原藩軍は、木下街道から馬込沢を経由して船橋方面に進軍しようとしました。ところが撒兵隊の別働隊が待ち構えており、馬込沢と夏見で衝突、一部の兵士は迂回を試みて近くの金杉(夏見の東側)や行田(同西側)でも衝突しました。撒兵隊を駆逐した佐土原藩軍は昼頃に船橋に突入し、船橋大神宮の西に大砲を設置し、別働隊を大神宮の南側と北側に配置して砲撃と同時に大神宮への攻撃を仕掛けました。ここに佐土原藩軍と撒兵隊は大神宮の北側にある「宮坂」で衝突して激しい戦いが繰り広げられたものの、船橋大神宮が砲弾の直撃を受けて炎上したため、撒兵隊は総崩れとないました。その頃、行徳を出た福岡藩軍は薩摩藩の援軍の力を借りて二俣を経由して船橋の入り口にあたる海神に進出、中山と船橋の連絡を遮断しました。これを知らずに船橋に撤退しようとしていた市川・中山方面からの撒兵隊は挟み撃ちに遭ってしまい潰走、負傷した隊長の江原さえもが放置される有様でした。更に船橋の街中で撒兵隊の残党がなおも抵抗を続けたために佐土原藩軍は船橋宿に火を放った。これが先の大神宮の火災と折からの強風が重なって予想以上の大火災となり、船橋を構成する3村で814軒が焼失してしまったのです。公式の資料に明らかになっている死者は新政府側20名・旧幕府側13名だと言われています。

こうして敗れた幕府軍は敗走して会津、函館戦争へと続くのですが戦争の話はこの辺で終わらせていただきます。

…つづく