戊辰の船橋戦争―10

溝口 浩

江戸時代の船橋市街の繁栄

家康が土井利勝に命じて作らせた船橋から東金に至る御成街道は九十九里方面での鷹狩のための道路で、将軍が休息・宿泊する為に船橋御殿(現・船橋東照宮)があり、その他に佐倉(成田)街道、上総街道、行徳街道の集中する所であったので、宿場として大いに発展し、江戸後期には旅館数が30軒にも上りました。その中で特に繁盛したのが成田街道です

天慶三年(940)に開山された成田山新勝寺は、戦国期にかなり荒廃し荒れた寺となってしまったのですが、初代市川團十郎が祈願して男児を授かったことから團十郎の信仰があつく、成田屋を屋号にするほどだったので江戸庶民の成田山信仰と團十郎贔屓が合体して成田山詣の客で賑わっていました。最盛期の寛政年間には飯盛り女のいる宿が22軒あったと言われています。当時は幕府から飯盛り女は一軒に2人までと決められていたが、有名無実となっていたので実際には100人だったのかそれ以上だったのか。大変な賑わいの大歓楽街だったのです。

…つづく