戊辰の船橋戦争―4

溝口 浩

薩摩藩の挑発

一方、江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人は命令を無視して工作を続けていました。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失。これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂されました。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させるという事件がぼっぱつします。また薩摩藩の支藩であった日向佐土原藩邸を庄内藩お預かりの新徴組が襲撃したのです。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができませんでした。薩摩の挑発に乗せられたということでしょう。

慶応4年1月26日夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始されます。翌日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始されました。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われています。

新政府軍は武器の数では旧幕府軍と大差なかったのですが、緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦に落入りました。翌日には薩長軍に錦旗が与えられ薩長軍は正式に官軍となり、旧幕府軍は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺したのです。

…つづく